【書評】粗にして野だが卑ではない(城山三郎)

2017年7月28日

今回は書評記事を書いてみようと思います。
割と本を読むのは好きなので、今後もちょくちょくおすすめの本を紹介できたらなと思います。
なにぶん今まで書評の類は書いたことがないので読みにくい文になっていたらすみません。
さて、最初の一冊は最近読んだ城山三郎著『粗にして野だが卑ではない』です。
城山三郎は経済小説、伝記小説で有名な作家で代表作に『官僚たちの夏』などがあります。
以前に同じ作者の”西の渋沢栄一”と呼ばれた実業家、松本重太郎を題材にした伝記小説『気張る男』を読んだのがきっかけでこの本を手に取りました。

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元国鉄総裁、石田禮助

今回の主人公は石田禮助、三井物産社長を経て国鉄総裁を務めた人物です。
明治19年に生まれた石田禮助は麻布中学校を経て、東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産に入社します。
その後アメリカ、インド、中国で支店長を務めた後最終的に代表取締役社長に就任しました。
昭和16年に同社を退社した後、産業設備営団顧問、公益営団総裁、日本国有鉄道監査委員長を経て昭和38年、第5代国鉄総裁に就任しました。
この本では石田の成人前や三井物産時代の様子にも触れつつ、国鉄総裁としての石田禮助の半生に焦点を当てています。

国鉄総裁就任

当時の総理大臣である池田勇人は政敵佐藤栄作の国鉄への影響力を絶つという狙いもあって、国鉄総裁への財界人起用を強く望んでいました。
しかし当の財界人からすればとてもやりたいとは思えない面倒なポストでした。

”従業員数四十六万。その数だけでも統率力の限界を超えている上、政府の指揮監督、国会の監督と手枷足枷をはめられての仕事である。  給与も運賃も自ら決めることができない上、公共負担をというので、農産物輸送は採算無視の低料金。通勤通学定期の割引についても、国鉄法では五割までと定められているのに、前者は八割三分、後者については実に九割二分の割引を強いられて”おり、”経営サイドに当事者能力がまるで与えられていない。運輸以外の副業は許されない上に、新線建設を各地で押しつけられる。これで、いったい企業なのか、それとも官業または準官業なのか。その点について、国鉄部内にも意見の統一がなかった。  加えて、巨大な労働組合の壁がある。  これでは誰が成ろうとうまく行くはずはなく、現に初代の下山定則総裁は原因不明のまま轢死体となり、第二代の加賀山之雄総裁は桜木町事故の責任をとらされて退任。  第四代の十河信二総裁は、三河島事故があり、その後、新幹線の予算問題で二期目の任期を全うしない中、辞職に追いこまれている。  末路はすべて不遇。花道にもならないポスト”だったからです。

このように完全に厄介扱いされていた仕事だったのですが、石田は話を持ち込まれると喜んで引き受けます。
引き受けた理由について石田は次のように語っています。

「わたしの動機からいえば、神様のみこころに叶うもんだ」
石田は別のところでは、神妙に語っている。
「私の信念は何をするにも神がついていなければならぬということだ。それには正義の精神が必要だと思う。こんどもきっと神様がついてくれる。そういう信念で欲得なくサービス・アンド・サクリファイスでやるつもりだ」
商売に徹して生きた後は、「パブリック・サービス」。世の中のために尽くす。そこではじめて天国へ行ける。
石田は、 「これでパスポート・フォア・ヘブン(天国への旅券)を与えられた」とも言った。
これを「天国へのパス」と書いた記者に対しては、「きみ、パスではなく、パスポートだよ」  と注意した。
日ごろ乗降に使うようなものではなく、天国へ向け永遠に旅立つための大事な旅券だというのである

つまり自分の利益ではなく、公共への奉仕の為にやるのであってそのような誰もやりたがらない仕事だからこそ却ってやる気になったのでしょう。
このように成功した人が引退後に社会全体に奉仕するような活動をするというのはアメリカでは一般的で、石田禮助のこういった考え方も米国勤務時代に影響を受けたものではないかと思われます。

「粗にして野だが卑ではない」

かくして石田禮助は国鉄総裁に就任したわけですが、国会での就任挨拶の際に発したのがタイトルにもある「粗にして野だが卑ではない」という言葉です。
以下抜粋

いずれにせよ、この初登院のときの石田の挨拶は堂々たるものであった。
「噓は絶対つきませんが、知らぬことは知らぬと言うから、どうか御勘弁を」
とことわり、さらに、
「生来、粗にして野だが卑ではないつもり。ていねいな言葉を使おうと思っても、生まれつきでできない。無理に使うと、マンキーが裃を着たような、おかしなことになる。無礼なことがあれば、よろしくお許しねがいたい」
石田はきわめて正確に自分というものを伝えたつもりであったが、国会での挨拶としては、異色であった。同級生相手の自己紹介に似ている。
顔を見合わせる代議士たちに向かって、さらに石田は正確だが痛烈な文句を口にした。
「国鉄が今日のような状態になったのは、諸君たちにも責任がある」
思いもかけぬ挨拶。
「無礼なこと」の連発である。代議士たちが怒り、あきれたのも無理はない。二度、三度と、
「なんだ、この爺さんは」
それは、世間一般の受けとめ方でもあった

と、このようなものでした。
石田は決して議員を挑発したのではなく、本人が言う通り婉曲に物事を伝えるのではなく思ったことを率直に言う性格だったということです。



石田禮助の人物像

これもアメリカ勤務で培われたものか、はたまた生来の気質なのか当時の日本人としては飛び抜けて合理的な考え方をする人物でした。
本人もそういう意識があったのかよく会話に出る英語の一つが「リーズナブル」であったといいます。

三井物産時代にはそんな合理主義者の一面を示す次のようなエピソードがあります。

「なんとかして戦争にならぬようにする道はないかと諸君に相談したく、きょうきてもらった。われわれはこれまでの日米の交渉の経緯を知らぬゆえ、戦争すべしとも、すべからずともいえぬが、戦争をすれば、十中八九負けるということを頭において日米の交渉をしてもらいたい。事情が許すなら、万難を排して戦争にならぬように持っていきたいということを、東条さんに申しあげたいと思う」
全員が賛成し、工業俱楽部理事長の井坂孝に代表して進言してもらうことにしたが、井坂が調べたところ、すでに開戦は決定されており、進言しても、
「東条首相の頭に針をさすようなもの」というので、とりやめ。代りにそれぞれ個人で運動することになった

 

ニューヨーク支店金物部の北原一造は、その後、本社勤務となったが、召集令状を受けた。
出征の挨拶に、当時、常務だった石田のところへ行った。
執務室で石田は向井と机を並べて書類を見ていたが、北原の挨拶を聞き終わると、
「いったい、どれくらいで帰って来れるのかね」 「おそらく三、四年は……」
北原が答えると、石田は声を上げた。 「へぇー、サム・サクリファイスだね」
相当な犠牲、たいへんな目に遭うわけだね、というのである。
北原はびっくりした。そうした言葉をはじめて聞いた。
出征と知ると、本心とは別に、
「おめでとう」とか「ごくろうさん」とか、当りさわりのないことを言うのがふつうな時代であった

国鉄での業績

在任中の業績としては、東海道新幹線の開通(もっともこれは前任の十河元総裁が進めた事業で石田本人は新幹線に対して否定的な面もあった)、赤字路線の廃止、名神ハイウェイバス参入など経営合理化に取り組みました。
赤字路線の廃止に関しては田中角栄が総理になって取りやめになるのですが、赤字路線に挙げられたその多くは結局後に廃止されることになります。
また、僕たちの生活にも関係がある所では”乗客を一等と二等に区別することで、差別感や一種の傲りや卑しさを感じる人もあろう”ということから「一等車」「二等車」という呼称を廃止し、現在も続く「普通車」「グリーン車」という呼び方に変えました。

お役所的な国鉄に民間企業的効率性、合理性を持ち込んだ石田ですが安全に関しては例外とし、採算度外視で対策を進めました。
それに関連して、特に印象に残っている一節があるので紹介します。

〝神よ、願わくは安全を守り給え〟  だが、その祈りは神に届かなかった。届く前に大事故が起った。  その年十一月九日、鶴見駅付近で貨物列車が脱線転覆したところへ、並走する横須賀線の電車が突っこむ。

急を聞いた石田は、磯崎以下に現場の指揮をとらせるとともに、池田総理に電話をかけた。

だが、石田は、 「えらいことをやりました……」  と言っただけで、絶句する。
池田は石田を叱咤した。 「総裁、あなたがそんなことで、どうしますか。しっかりしなさい、総裁!」

電話の後、池田は側近に漏らした。 「弱ったな。たいへんショックを受けてるようだ」

石田はとって返し、遺体の安置されている総持寺へかけつけた。そして、百六十を越す棺の列を見て、顔色を失う。

足もともおぼつかなく、辛うじて焼香をすませた。

石田は遺族を前に頭を上げられず、 「ほんとに申訳ないことをいたしました」

うなだれるばかりであった。

それは、部内の者にも記者たちにも、思ってもみないとりみだしようであった。まさに白髪ふりみだして、という観があった。

感想を聞かれても、 「地獄だ」  と、短くつぶやくばかりであった
数日後、自民党本部へ説明に行ったとき、石田は廊下でころび、腕の骨を折った。このため、葬儀の日には、入院中の病院から片腕を白布で吊って出かけた。磯崎が代行しようとしても、 「どうしても自分が行く」 と、聞かなかった。

だが、石田は嗚咽して、用意した弔辞をろくに読めなかった。

この鶴見事故は総裁就任の年に起こったことなので防ぐのは難しかったと思いますが、責任を感じて辞表を書いたものの慰留され、以降は給料を全額返上し「パブリック・サービス」という意識をより強く持って仕事に臨むことになります。

まとめ

 

”生前、石田はよく言っていた。 「若い人の中にりっぱな人が居る」  そのためか、日本の前途についても達観した言葉しか残していない”

 

今も昔も立派な経営者、問題のある経営者両方いるのは当たり前ですが、彼のこういった言葉に恥じないだけの国、国民なのかと問われれば自信を持って頷くことが出来る人がどれだけいるでしょうか。

不祥事が起きても保身ばかりで逃げ回る経営者は21世紀の今になってもたくさんいます。

現代に生きる我々も昔の人から学べることは色々あると思います。
全体的に読みやすく小説としても面白いのでおすすめの一冊です。

是非一度読んでみて下さい。

 

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